原画展はなぜつまらないのか


先日水戸に行く機会があり、ふらっと立ち寄った茨城県近代美術館でメディアアーティスト/絵本作家、岩井俊雄さんの企画展「どっちがどっち? いわいとしお×岩井俊雄 ―100かいだてのいえとメディアアートの世界」をみた。結果的にそこそこ楽しんだのだけれど、すこし引っかかる点があった。それは、展覧会のタイトルにもある、絵本「100かいだてのいえ」の原画をはじめとした一連の展示だ。

 

「100かいだてのいえ」はシリーズ累計発行部数400万部を超える大ヒット作品だ。100階建ての建物の最上階(あるいは最下階)へ主人公が1階ずつ登って(降りて)いく様子がカラフルかつ緻密に描写され、縦開きのページをめくることで1から100までの数字を楽しみながら覚えられる構成になっている。

 

で、会場を入ってすぐのところに絵本の原画や下絵、没案などがまあまあのスペースをとって展示されていたのだが、これがもう、壊滅的につまらなかった。作家や美術館には申し訳ないけれど、たいへんに苦痛な時間だった。「ああ、まちごうたな」「もう帰ろうかな、お金損した」とさえ思った。

 

その後のメディアアートの展示がおもしろかったためになんとか自主退館は免れたものの、帰りの電車で僕はもやもやしていた。原画を鑑賞するってつまらない。それまでうっすら意識されていただけの感情が、脳内にはっきりと発現した(けっして100かいだてシリーズがつまらないと言っているのではないです)。でも、どうして原画をみる行為はつまらないのだろうか。勤めている会社の退職間際で暇を持て余していた僕は、このことについてすこし考えてみた。

 

結論から言うと、原画展がつまらないのはそれがたんなる「ファンイベント」に過ぎないからだ。ファンイベントとは文字通りファンのための見せ物だ。つまりファン以外はお呼びでない。僕が展示を楽しめなかったのは、そもそも「100かいだてのいえ」について詳しく知らなかったためである(これを言うのはとてもためらわれるが、岩井俊雄さん自体不勉強でよく存じ上げなかった)。

 

「原画」を辞書でひくと、つぎのように書いてある。

 

げん‐が〔‐グワ〕【原画】

複製したり印刷したりする、もとになる絵。「挿し絵の—」

出典:小学館 デジタル大辞泉

 

うーん、アウラがどうたらは関係ないけど、「複製」がポイントになりそうだ。

 

絵本の原画は、複製・頒布されることを前提としている。いっぽう、アート作品は美術館やギャラリーといった「場」においての鑑賞が期待されている。つまり、原画とアートではメディアとして求められる役割が根本的に異なるのだ。

 

絵本の原画は、はなから「場」における鑑賞を想定して作られていない。にもかかわらず、額装され、壁に吊るされることでアートというメディアへ変身を遂げる。本来手にとって自分の好きなように接するはずのものを、手を触れず、一定距離を保ちながらもっともらしい顔つきで順繰りにみてまわる。そんな鑑賞態度を強いられることが僕には苦痛だった(下絵や色校正のコピーなどは手にとることができたのでおもしろかった)。

 

もちろん、古代の土器や農工具のような鑑賞を目的としてつくられていない実用品、活版印刷や浮世絵、シルクスクリーンのような複製品も美術館・博物館にはたくさん展示されている。でも、これらの品々は歴史や文化や美学(民藝運動を例に挙げてもいいだろう)といったさまざまな鑑賞の「文脈」に接続されている。しかし、僕たちが原画を見つめるまなざしにはそれが欠落している。

 

原画と観客の間をつなぎとめるものは、それを知っているかどうか、もっと言うとそれを好きかどうか、しかない。細かな描写に感心したり、ものづくりのプロセスを学んだりするといった楽しみ方は細々とつながりはしても、決して太い幹にはならないだろう。

 

とにかく、ファンイベントとメディアアートの展示という、ふたつの異なる性格の催し物がひとつになっていたので、予備知識のない僕は混乱してしまった。企画意図を汲んでいなかったと言えばそれまでかもしれないが、気軽にアートをみにきたつもりなのに、いきなりファンイベントにカチ合い、びっくりしたのだ(これは企画の意図をよく知らない、という意味で僕と同じ立場にいたであろう子供も同じだったようだ。暗闇のなか、ミニマルなBGMにあわせて無数の紙人形がストロボを浴びてぐるぐる回転する「時間層II」をみて大泣きしていた子がいた)。

 

改めて振り返ってみると、主催者側も展示内容が分裂していることに対して意識的だったようだ。茨城県近代美術館のWEBサイトに掲載された「どっちがどっち~」の説明は、つぎのようなものだ。

 

子どもたちに大人気の絵本作家・いわいとしおと、メディアアートの第一人者・岩井俊雄。一見、相反する異ジャンルのクリエイターは、実は同一人物だった!

 

なぜ、彼は2つの顔を持つのか? 子ども時代の発明ノートやパラパラマンガ、絵本原画やスケッチ、メディアアートの再現展示によって、アナログとデジタルにまたがる、その多種多様な表現世界の全貌と創作の秘密に迫ります。

www.modernart.museum.ibk.ed.jp

 

ここには夏休みだからお父さんお母さんは子供といっしょにいらっしゃい、という集客・マーケティング的観点が透けて見える(じっさい子連れ客がほとんどだった)。あるいは、もう10年以上メディアアーティストとして目立った活動をしていない、岩井俊雄という作家の複雑な立ち位置も関係あるかもしれない。メディアアートだけだと回顧展のようになり、いま何してんねんということになってしまう。

 

とまれ、僕には原画の楽しみ方がよくわからないし、原画展はつまらないという認識を確固たるものにした。なんとか原画を楽しんでみてもらおうとする工夫は感じられたのだけれど、それでもファンイベントの域を出るものではないように思った。

 

原画展は展示のフォーマットとしてまだ新しく(最初に開かれた原画展っていつなんでしょうね)、これから鑑賞法が確立されていくのかもしれない。歴史という時の流れが、鑑賞する文脈を付与するのかもしれない。自分自身がそれを考えてみたっていいだろう。でも、わざわざそこに時間を割こうとも思わない。だって僕は自転車に乗って綺麗な夕日をみにいったり、ソウルミュージックのレコードをかけて踊ったりするので忙しいからね。

 

ちょっと当たり屋じみているが、よっぽどファンでない限り原画展やそれに類する展示には僕はもう行かないと思う。そして原画展はふつうの美術展面をするのではなく、もっとファンイベントであることを明確にしていてほしい。

 

「よく知らないやつが来るな」「予習してから来い」という向きもあるかもしれない。でも、詳細をよく知らない、ふらっと立ち寄っただけの人が楽しめないなら、それこそほんとにただのファンイベントだと思うのだけれど。