泉南のヤンキーは新宿ネオン街の夢を見るか?

むかし、「マイルドヤンキー」という言葉がよくメディアに取り上げられていたとき、「この世にマイルドなヤンキーなど存在しない。存在するのはヤンキーか、ヤンキー以外である。マイルドヤンキーとされているのは、ヤンキー風の嗜好を持った『ふつうのひと』だ。マイルドヤンキーを考えた人は本物のヤンキーを見たことすらないに違いない」という意見(うろ覚えです)をTwitterか何かで見て、おもわず膝を打ったことがある。

 

なるほど、「マイルドヤンキー」を提唱した原田曜平さんは東京都出身である。授業中、ふと外に目をやると校門の前に爆音を轟かせて乗り付ける改造車の群れがいた経験もなければ、友達と楽しく自転車で帰宅中、幅寄せしてきた車のパワーウインドウの隙間から「殺すぞ」と恫喝された経験もおそらくお持ちでないだろう(あ、でもWikiみたら北区出身と書いてますね。じゃあもしかしたらあるかも)。

 

ヤンキーと「ふつうのひと」はまったく違う存在だ。その間には埋めようのない隔たりがある。両者を弁別するのは至極簡単で、それは暴力を経済の中心に置いているかどうかを見れば分かる。「ふつうのひと」が金銭と引き換えに欲しいものを手に入れるのに対し、ヤンキーは暴力と引き換えに(金銭を含む)欲しいものを手に入れる。お金をたくさん持っているやつが偉いのではなく、喧嘩が強いやつが偉い。ヤンキーの経済力とはすなわち暴力の強度である。暴力以外のヤンキー的要素(すでに今年1年分の『ヤンキー』という単語を使いはたした気がして息切れ気味だ)―ガルフィーのジャージ、セブンスター、深夜のドンキにアルファード―はあくまで記号的なものに過ぎない。つまり、アウトフィットやアティテュード(なめんなよクソポリ死ね!)がヤンキーかどうかを規定するのではない。暴力のみがヤンキーをヤンキーたらしめるのである(なんかニールヤングっぽい言い回しだな)。

 

ヤンキーは暴力を介して経済活動を行っている。したがって彼らは地方や、あるいは都市の周縁でしか生存できない。なぜなら都市は強固な金融経済を中心に機能しているからであり、また彼らの本領である暴力を介して作用する経済も、都市ではヤクザや半グレといったさらに高次の暴力を持つ存在に握られているからである。仕方がないので彼らは周縁部をぐるぐる回り、敵対グループともめたり、気まぐれに「ふつうのひと」にちょっかいをかけたりして充足することを余儀なくされる。

 

ヤンキー的なアウトローが社会において周縁化されるのは日本に限った話ではないようだ。アメリカのパワーポップバンド、ファウンテインズ・オブ・ウェイン(FOW)の“Leave the Biker”という曲は、小気味よいカッティングギターに乗せてこんな歌い出しから始まる。

 

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Seems the further from town I go
The more I hate this place
He's got leather and big tattoos
Scars all over his face

 

中心から離れれば離れるほど
この町が嫌になるみたいだ
レザージャケット、それにでっかいタトゥー
顔中傷だらけ

 

ここで描写されているのは「バイカー・ギャング」と呼ばれる集団である。その名が示す通り、ハーレー・ダビッドソンのようなイカついオートバイに跨って徒党を組むアウトローたちだ。こう書くと「なんだ、アメリカの暴走族か」と思われるかもしれないが、とんでもない。ときに殺人を犯し、売春やドラッグの取引で生計を立てる、(撞着語法的な言い回しになるが)非の打ち所のない無法者である。歌詞にある通り、彼らは所属チームのパッチを貼ったレザージャケットを着て全身にタトゥーを纏う。また、「町から離れるほど」という一節から都市部ではなく、その郊外に生息していることが分かる。

 

すれ違うだけで恐ろしい。目を合わせたら攫われるかもしれない。この曲の主人公は、顔面傷だらけの屈強なバイカー・ギャングにビビり倒している。ところが、続く歌詞で曲のトーンはすこし変化する。

 

And I wonder if he ever has cried
'Cause he couldn't get a date for the prom

 

思うんだけどあいつ、
プロムに行く相手が見つからなくて泣いたことはあるのかな

 

ギャングとプロム(高校卒業前に開かれるダンスパーティー、原則として男女ペアで参加する)。思わぬミスマッチによって、暴力と恐怖でコーティングされた彼らの表層に小さな風穴が空く。主人公は非日常を生きるバイカーに「プロムに行く相手はいるのか」という切実かつリアリティを持った日常を突き付けることで、埒外にいた彼らを自らの土俵に引きずり込もうとするのだ(まあそもそもアウトローなのでそんなものに出席する気は端からないだろうが。ていうかプロムに行く相手が見つからなくてすすり泣いたのは主人公のほうである)。

 

僕は音楽の趣味もいいし、アートや文学の話ができて、身だしなみにも気を遣っている。だからせめて、バイク野郎には女の子に見向きもされないでいて欲しい。主人公のそんなささやかな願いは、抗い難い現実によってもろくも打ち砕かれる。かつての流行歌で「マジでヤンキーがもてる」と歌われたように、不良がモテるのは佐賀県だけでなくマジで万国共通なのである。

 

He's got his arm around every man's dream
And crumbs in his beard from the seafood special
Oh can't you see my world is falling apart

 

奴はすべての男の夢を手にしてる
シーフードスペシャル・ピザのカスがヒゲにくっついてるくせに
君は僕の世界がめちゃくちゃになってくのがわからないのかよ

 

暴力的経済圏では、すべてを手にするのは圧倒的な暴力を持った者だ。下品で粗野で乱暴なのに、意中のあの子は自分ではなく悪党に振り向いてしまう。暴力的経済力ゼロの生っ白い主人公は、こう情けなく懇願することしかできない。

 

Baby, please leave the biker
Leave the biker, break his heart
Baby, please leave the biker
Leave the biker, break his heart

 

ベイビー、お願いだからバイカーなんか見捨ててよ
あいつのことを振ってズタボロにしてくれ
ねえ、頼むからバイク野郎なんか相手にしないで
どうかあいつの心を傷つけて

 

悔しくてこのままでは引き下がれない主人公は、どうせお前ら不良はエロ本でしか字を読んだことがないんだろう、とバイカーたちの知性を軽蔑し、たとえ飼っていた子猫が轢かれて死んでも泣くことはないのか、と立て続けに投げかける。しかしそれでもなお、思いを寄せる彼女は小さな命を憐れむ小さな心へは見向きもせず、タンデムシートに飛び乗ることしか頭にないのだ。

 

ところが曲のクライマックス、音程を上げて繰り返され、ビートルズ風に収束していくかと思われたコーラスは唐突な鍵盤の音で断ち切られる(”A Day In the Life”へのオマージュだろうか?)。この人を食ったようなピアノの響きは「なーんちゃってね、全部冗談でした!はい終わり〜」と言っているようにも聞こえる、ヤケクソなちゃぶ台返しだ。聴き手は思わず脱力し、ただ笑うしかない。

 

暴力が幅をきかせ、自由や平和や人権を脅かし支配しようとする現代において、私たちは跳梁跋扈する匪賊どもに立ち向かわなくてはならない。立ち向かうといっても、各自の生活を美しくしてそれに執着するなどという、暢気な利己主義に自閉することではない。暴力に暴力で対抗することでもないだろう。銃を持った悪漢から身を守るために市民全員が武装して街を歩く社会など、うすら寒いディストピア以外のなにものでもないからだ。FOWは、バイカー・ギャングというならず者をメタ的な「おちょくり」の構造に放り込むことで暴力を相対化し、抵抗する。不条理な力を前にしてできることは少ないかもしれない。真正面からぶつかったところで勝ち目はないだろう。でも、暴力は絶対的なものではないし、私たちは決して無力ではない。“Leave the Biker“は、腕っぷしも気も弱い私たち「ふつうのひと」に、そんな知恵と勇気を与えてくれる曲だ。

 

 

 

“Leave the Biker“をクリス・コリングウッドとともに作り上げたアダム・シュレシンジャーは2020年4月1日、COVID-19の合併症によって亡くなった。アダム、素晴らしい音楽を本当にありがとう。僕はこの曲がFOWで1番好きだ。どうか安らかに。